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Side Story

ある一日

 窓外に見える木々は、自らの枯れた葉を急いで地面に落としていた。もう秋か、とベッドに横たわりながら夏海は思った。
 秋の始まり。夏海は秋が嫌いだ。普段としていることは変わらないのに、人恋しくなり寂しさが自分に重くのしかかってくるからだ。他のどの季節でもこんな気分にはならない。
 壁に掛けられた何の装飾もない時計が午前九時を知らせてくれた。朝食を食べ終わっていた夏海は、静かにベッドから降りると、ウサギのような柔らかくふくらんだ愛用のスリッパを履いて病室から逃げ出した。
 とりあえず廊下に出てみたが特にすることもなく、結局その階の中央に設けられたホールを目指したが、途中ですれ違う患者たちを見てさらに気分を害した。長期入院の患者が多く集まるこの病棟には、誰かの見舞いに来たなどという人は滅多に来ない。よって廊下を歩く人間は医者か看護婦か患者に限られ、廊下は一人で前かがみになって歩く、いかにも体調が悪そうな患者でごった返してしまう。
「何でみんな世界の終わりみたいな顔で歩いてんのよ」
 今日の運勢は最悪。始まりも最悪。そんな日にずっと入院患者の沈んだ顔を見続けるなんて冗談じゃない。
 予定変更。今日は外に出ちゃおう。
 夏海はあと少しという所まで来て急に踵を返し、今度は非常階段の方へと歩き出した。
 この階の患者は外出するには許可を取らなければならないが、彼女にとってそんな掟はまったく意味を成さない。周囲に人がいないことを確認し、夏海は外界と病院を隔てる重々しい扉を押し開けた。
 風が頬を撫でた。
 五階の高さからの眺めが解放感で一杯だった夏海をいっそう興奮させ、我を忘れさせた。呪縛から逃れた夏海を止める者はおらず、冷静な思考回路を失った彼女は、階段を駆け降りて地上に足を付けていた。
「このままどっか行っちゃおうかな」
 いくら今の夏海でもそんなことできるはずがない。自覚はしていたが、それはうっかり口から滑り出してしまった彼女の本音だ。
「なあ」
 突然聞こえてきた声に、夏海は必要以上に驚き飛び上がった。人に見つかってしまったのならば、ただでは済まないだろう。今度の罰はなんだろう。病院だから食事抜きなんてことはありえないだろうけど。もしかしたら『注射百回の刑』とかだったらどうしよう。などの考えが、一瞬のうちに夏海の脳内を駆け巡った。
 暴れまわっていた心臓を押さえつけながら、ロボットのようにぎこちない動きで振り返る。が、そこに人の姿はなかった。
「にゃあ」
 足首に冷たい物が触れ、夏海はもう一度飛び上がった。恐る恐る下を見た彼女の目に飛び込んできたのは、見慣れた小動物。
「ね・・・・・・ねこぉ?」
 安堵のあまり腰が抜けてその場にへたり込んでしまった。猫が夏海を心配するように歩み寄った。
「君どこから来たの?」
 病気を持っていたらと思いつつも、夏海は手を伸ばして猫の体をそっと撫でた。
「首輪が付いてるってことは、お前を探してる人がいるってことよね」
 膝の上に座らせて目線を合わせると、猫の方も夏海の眼をじっと見つめ返す。
「きっとすぐに君の大切な人が見つけ出してくれるよ・・・・・・」
 ――あたしにもそんな人がいたらいいのに。
 背中を丁寧に撫でながら、呟くように言った。
 そう、飼い主がきっとこのコを探してる。そう思いながらも夏海はその場から動き出せなかった。今この猫と別れてしまったら、また病室で一人孤独と闘うことになる。少しの間でもいい、そんな現実を忘れていたいと夏海は強く思った。
「みーちゃん!」
 現れたのは小学校低学年ぐらいの女の子だった。この状況からすると、どう考えても猫の飼い主だろう。
 猫を抱き上げて渡してあげると、『みーちゃん』を見つけて半泣きになっていた女の子は「ありがとう」と笑顔で礼を告げると、足早に立ち去ってしまった。
「また一人・・・・・・かぁ」
 もう誰かに慰めてもらうような歳じゃない。夏海は自分に強く言い聞かせて、重い足取りで非常階段を上り始めた。
 夏が終わり、あんなに空を覆い尽くしていた入道雲も今はなく、変わりに透き通った冷たい青がどこまでも広がっていた。
「やっぱり耐えられないよ」
 夏海は再び監獄へと戻っていった。

 頭がぼんやりしてる。夏海は上半身だけを起こして時計に目をやった。午後五時過ぎ。病室に戻った所で記憶が途切れているので、多分すぐに疲れて眠っちゃったのかな。時間を少し無駄にした気がするけど、寂しさから逃げられただけでもよしとしようと夏海は思った。
 ふと窓の外を見ると、いつのまにか空の色が変わっていた。赤のペンキを溢してしまったのだろうと思うくらいに、空一面綺麗な夕焼けに染まっている。夏海に取ってそれはただ単に青が赤に変わったというだけではなかった。
 温かみのある赤が冷たい青に打ち勝ったんだ。
 何てことはない、ある秋の日の黄昏。しかしそんなことでも、時に人は勇気付けられるものなのだろう。夏海の顔に自然と笑みが浮かんだ。
 ――こんこん。
 聞こえてきたのは、扉をノックする音。医者の回診の時間ではないし、夕食にはまだ早い。この時間の訪問者と言ったら、夏海には一人しか思い浮かばなかった。
「どうぞ」
 お母さんだ。いつも仕事が忙しいのに、ちょっとの暇を見つけたらお見舞いに来てくれる、あたしの自慢のお母さんだ。
「あ、お母さん!」
 しかし入ってきたのは母親だけではなかった。歳は自分より少し上ぐらいで、ひょろっとした頼りない男が一人、母親の横に付いていたのだ。
「・・・・・・と、誰なの?」
 誰の目から見ても明らかな作り笑いに、軽薄な調子で言った。
「川浦悠斗。大学の二年生やってマース」
 やっぱり今日の運勢は最悪だ。夏海は朝の占いの結果に深く納得した。

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